2016年3月29日火曜日

3月25日、アパリで入国できない。のでスービックベイへ移動。

思い出の花蓮を21日の午後に出発し、353海里南に走ってフィリピンのアパリに
24日の午前11時に到着しました。

 
このルートは北に向かって流れる黒潮の影響をいかに浮けないか?が
ポイントです。
 
台湾に沿って南下時は沿岸ぎりぎり、岸から約1-2海里の位置で
反流、つまり南に向かって流れる流れを掴みましたので、快調でした。
 
台湾を離れて後、ルソン海峡を横切って南下時は、流れが逆で両エンジン
フル回転。フィリピンに近づいたら、流れに押される様になり、気持よく
アパリに着きました。
 
2人乗りの小さな漁船が近寄って来ました。細身の船体の両側に
竹で作ったアウトリガーをつけています。これが最初のアパリの人との
コンタクトです。サバを手に掲げるので、サバを売りたいのかなあ、と
見つつ、意味も無く、ビールを2缶プレゼント。喜んでいました。
 

が、アパリの河口の入り口は妙に波立っています。電子海図では深いはず
の所に砂が堆積して浅くなっていました。海図はやめ、目ん玉と深度計を
頼りにゆっくりとアンカーを打つところに入り、水深4.5mの所にアンカー
を打ちます。
取り敢えず、乾杯!

 
無線でハーバーマスターを呼んでも、答え無。良くある事で、
Uminekoの船長はちっとも気にならない様になっています。
 
昼ごはんは簡単にイカスミ焼きそばとビールで済ませ、ゴムボート
を出して、上陸です。子供たちが沢山浜辺で泳いで遊んでいます。
 
我々のボートを見つけてわっと寄ってきました。駒井さんと佐藤が
降りて、Uminekoに帰る辻野さん運転のボート振り返ると、子供たちが
ボートに纏わりつき、占領されつつあります。
 
そうしているうちに年上の2人が他の小さい子を静して、開放してくれました。

 
上陸して、手続きが出来そうな場所を探します。典型的、アジアのスラム街
ですが。怖さは感じません。


コーストガードの基地にいた青年から税関とイミグレの場所を聞き出し、向かいます。
 
ゲートは閉まっています。嫌な感じ。鍵はかかっていなかったので、開けて中に
入ります。「たのもう」。なかから一人の20代位の男が出てきました。
 
カソリックの休日で今日から4連休。誰もいないよ。という事でした。
なんとかならんか?と食い下がります。電話を掛けてくれましたが、「月曜まで
待ってくれ。」部屋に入ってテレビを見始めました。
帰ってくれと無言で語っています。

 
月曜はここから先で乗員の入れ替えがあり、ここで4日間も待てません。
 
フィリピンペソが必要なのと、燃料補給が必要なので、サイドカーの
若者に連れて行ってもらいます。銀行のATMで現金は出せました。
燃料はシェルのガソリンスタンドがあり、軽油は1リットル約50円。
しかし、運ぶ方法が無い。
 
サイドカーの若者に、「船まで来てポリタンク7個を受け取り、160リットル
入れて、再び船まで届けてくれたら、2000円払うがどうか?」と提案。
しばし考えて後、合意に至り、午後4時に船に来てもらう事に。
 
我々は船に戻り、ポリタンクの軽油を船のタンクに移し、空のポリタンク
にして準備します。3時45分、予定時刻よりも早く、トントンと単気筒エンジン
の音が聞こえてきました。
若者が親父さんと親戚の男を集め、親父さんの船でやってきました。
 
船長、私ですが、その船の乗り込みます。ウネリのある海面をその木船は
ゆっくりと街に向かって進みます。ゆったりと左、右に揺れ、スリル満点。
川から街に入ります。川というか運河というか水路が沢山あって、フィリピンのベニス!



 
ガソリンスタンドから150mの所に船を停め、一族がタンクを運び、満タンにして
私は支払い、彼らが運びます。
その間に、バンとバナナのショッピングも行いました。


 
Uminekoに戻るころはウネリが更に大きくなり、大揺れ。満タンのポリタンを
Uminekoに移すのも、大変。
これで手数料2000円は大バーゲン。かれらもこれで1000ペソは大儲け。
ウィンウィンの取引は気持ちがいい。
 
24日の夜は大揺れの泊地で一晩を過ごします。
 
乗員入れ替え地点をマニラの北にあるスービックベイヨットクラブに変更。
25日の午前7時にアパリを出て、現在スービックに向かっています。

約330海里。27日に到着予定です。

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